介護職員の苦悩と自己犠牲

なかなかに介護職員の苦悩については理解され難いものがある。
正直言うと介護というものはすべてオーダーメイドであり、優劣というものをつけようが無かったりもする。だからとても使い捨てになりやすい。経験というものが第一義的に役に立たないのだ。一応私は介護の経験が2009年の12月からあるけれども、それは過去のデータに過ぎず、目の前の方に通用する保障はない。常に新鮮な気持ち、先入観なく望むことが、唯一経験から得られたノウハウである。いきなり自分を否定してかかるところからはじめなければいけないのがまたツラいところである。
でも考えてみればアタリマエのことであって、人の人生なんてそれぞれであるから、それを一つの観点で押し付けてしまうこと自体、傲慢きわまりないことである。時代は常に移り変わっていくのだし、それは高齢者といえども例外ではない。
私は夜勤の暗い闇から逃れ出てきたが、やはり夜のことが未だに気になったりはする。介護施設というのは24時間対応の仕組みになっていない。皆さんそう思っているかも知れないが、完璧な間違いだ。施設は基本的に無法地帯、治外法権といってもいい。その閉鎖的な環境故に様々な事件が起こっている。
そこで力戦奮闘をしてきたつもりだったが、結局それはごく限られた人たちの生活を潤すだけとわかった時、やる気は失せていった。でもまあ30名近い方の命を預かる緊張感は、なかなか得難い体験であったとは思うけれど。
みんな忙しくすることによって何かをごまかしていた。それによって自らの目や耳を塞いでいたのだ。私は夜勤中フロアから離れるということができなかった。怖くてできないのだ。自分が離れた時に何かあったら言い訳できないと思う。だが、何故かみんな離れたがっていた。いろんな業務を作り上げて、夜の闇から離れようとしたのかもしれない。
夜勤は潜水艦同士の戦いに似ている。音を出したほうが負けである。先に発見されてしまうと対応は全て後手後手に回ってしまうからだ。神経を研ぎ澄ます必要があるのだ。それが理解されたことはあまりなかった。
事故が起きないこと。というのはなかなか評価されにくいファクターだからである。何事もない。というのがいかに素晴らしいことなのかを評価できる人は少ない。事故が起きたけど軽やかに解決しました!!みたいな方がかっこよく見えるし、実績として評価されやすい。一番いいのは事故が起きないことなのだが・・・・。
今日もすでに夜が始まっている。時々懐かしく思う。夜勤をやらなくなってそろそろ半年かぁ。
介護の仕事は電気、ガス、水道のインフラに近いものがある。できて当たり前という風潮があり、それを常に要求される。ここが一番のストレスじゃあないかな?
介護職員になるような人は犠牲精神あふれる人が多い。でも一歩間違うと自虐になり、ブラック職場を生む土壌になる。ボランティアをして当たり前みたいな風潮になってしまうのだ。これは由々しき事態である。ものを大事にせず人間すら浪費されている現状こそが、最大の問題点であろうと思われる。



明太子なめたけと中央構造線

英文翻訳をずらずらとやってみたので、たまには日本語のサイトを
妻が、明太子なめたけが食いたいということで、検索してみたら
サンエー明太子なめたけ
がカルディコーヒーファームにあるということで早速保谷のカルディへいってきました。買ってきたのはいいものの、妻が欲していたのはこちらの製品だったようで、また長野まで行く必要がありそうです。

明太子なめたけ稲垣来三郎匠長野県飯田市

多分諏訪湖SAあたりで買ったものじゃないかなぁと思います。なんで諏訪湖までいったかというとあまりに地震が多発するもんですから、中央構造線
をなだめてみようという意味でいってみました。諏訪湖は地質学的に見ても様々な断層が集まる面白い場所みたいで、ここに祈りを捧げることはかなり大事なことなんじゃないかなぁという気がしています。

所沢〜鶴ヶ島〜中央道って感じになりそう。ざっと200キロぐらいのドライブですね。



席を譲るタイミング

JR中央線にて久しぶりに通勤ラッシュの人となったわけなのであるが、介護福祉士という仕事柄、ついつい歩くのが大変だなぁと思う人が目についてしまう。そしてさり気なく、かつ自動的に見守りモードにはいっていることがある。通勤でいつも見かける人っていうのもいる。そういう方を見かけた時に席を譲ることがあるのだが、これって中々タイミングが難しい。やはり乗り込んだすぐに声をかけるのがベストのようである。妻にも聞いてみたことがあるのだけれど、一旦安定した場所を見つけると、移動中に動くのはかえって難しくなるとのこと。見ず知らずの方に介助を受けるわけにも行かず、断るのだそうだ。だからといって悪気があるわけではないので、声を掛けていただくこと自体は、とてもありがたいとのことである。
電車で席を譲る時に断られない方法です

まあ断られてもいいからとりあえず声を掛けてみるっていう文化が根付いていくといいなぁと思うのであった。障害の内容は様々であり、見かけだけではどんな助けを必要としているのかわからないことも多い。だから、そこにはコミュニケーションが必要になってくる。このコミュニケーションこそが最も苦手であり、欠落していたのではなかったか?それがそのまま「バリア」となって身体障害者の不便をもたらしたのではなかったか?私はそう思うのである。
命はそれ自体で価値がある。と私は思っている。子供だろうと大人だろうと障害者であろうと高齢者であろうと男であろうと女であろうと独身であろうと。よく言われることとして、高齢者や障害者は生産性がないから社会にとって足手まといである。という考え方だが、これは実は人材の浪費にほかならない。「足弱は斬り捨てて良し」というのは戦時の発想だ(足弱とは女子供のこと)戦争というごく限られた目的には必要ないから殺してしまっても良い。ということ。再生産を考えていない浪費であることはすぐにわかるだろう。
足弱とはこんな感じ。

経済的な合理性なんて、結局人々の考え方や行動で変わっていってしまう。
日本経済は今異常な状態だ。まともな事業が育たず、浪費ばかりしている。一人一人がいきる意味を見直す必要があるんじゃないか?一番気になっているのは、栄養不足からくる精神疾患である。人間の体が欲する栄養をとれない状態である。それが狂気の原因ではないか?

バリアフリーな助手席プラン

隣に要介助者を乗っけて走っているといろんな改造プランを思い付く。欲しくなるのは回転シートと自動ドアである。
ドアを開けたあとは手すりになってほしいのでバーになるといい。自動でゆっくり開いて障害物を検知したらぶつかる前に止まってほしい。
あける動作より、閉める動作にアシストが必要みたいである。
ポルテみたいなスライドドアも有効であると思う。
シートはその人に応じたクッションを取り外し可能になっているのがベスト。
ふと思ったんだが羽根あげ式のガルウィングはこういう障害者車両にむいてんじゃないかと思った。
はねあげてしまえば障害物はなにもなくなるわけで、介助はやりやすいかもしれない。
電動がいいか手動がいいかはなかなか悩ましい問題だ。介助していると結構電動の遅さにイライラすることもあるしどうもしっくり来ないのだ。これは永遠の課題かもしれない。
ドアを一時的に固定する必要もあるのかなぁ?
我が家のブルーバードは運転席と助手席ちょっと下がっちゃってる。車令19年目だししょうがないんだけれど。