しばらく放置でしたが、フェイスブック上ではまとまった文章を書くようにしてましたので、そこら辺をコピペでアーカイブ作業としたいと思います。
2018/12/24
学生の頃から若者文化には馴染めなかった。未だに苦手である。
本を読んだりして、「民主主義とは理論的科学的に名君を作る制度なのか?」などと考えていた人間だったから、他の学生と打ち解けられるはずもなく(その考えは現実の衆愚政治によって打ち砕かれたが)いつも学校では浮いていたと思う。それが故に、きちんとしていないと自分の居場所はなくなってしまう。
わけのわからない人間だけれども、やることはやるということで、かろうじて学生内で居場所を認めてもらっていた存在であったのだろう。敬遠はされていたけれども。いつしかそれが私の普通になっていた。
コンピューターテクノロジーに興味を示したのも、そちらのほうが人間よりも人間味あふれる存在に思えたからだ。歴史も同様である。歴史は人間学だから、なおのことそうである。歴史と自然に語り合うほうが現実世界より素晴らしく思えたのかもしれない。こういう疎外感が私の心の骨格をなしている。
手柄とか功績というのは、すべて他人に渡してしまっていい。そうしてしまう方が気楽でいい。そっちのほうがうまく行く。
他人に手柄や功績を渡すとどうなるか?2つの場合が考えられる。
1)渡された手柄や功績が自分の手柄だと思い込む。
2)手柄を渡されたことに気づき、自分のものにする。
このどちらかになるだろう。1)の場合は簡単だ。功績を渡したほうがいなくなればたちまち自滅する。実に単純。2)の場合は、渡された手柄や功績に依存するようになる。そうすると自分で何もできなくなり、功績を渡した方の思うがままになってしまう。
どちらの場合も功績を渡すと相手をコントロールできてしまうことになる。コントロールできない場合は、自分では功績を立てたと思っていても、ちっとも功績じゃなかったということになる。功績なんてそんなものである。だからどんどん周りの人に功績なんか渡してしまおう。渡すことによってまた自分の功績とは何だったのかを理解することもできる。
ただし、自分だけには嘘をつかないこと。自分のやったことだけは自分で評価することだ。それさえ守っていれば人を妬むこともないし、妬まれることもない。実に気楽なものである。
会社のそばの図書館へいってみた。図書館にしても本屋にしても古本屋にしても、はじめて訪れる場合は、まず、すべての書棚を一回りする。本を手に取ることはしない。ずらりと並んだ題名をひとつの文章として読んでいく。図書館をひとつの本としてまずは捉えるのである。そうするとその図書館のシナリオが見えてくる。それを一通り眺めてから、好きな本を手にとる。そうすると必要な本が目に飛び込んでくるようになり、スムーズに取り出すことができる。図書館はこのように楽しい場所である。規則正しくならんでいるので必然的に文章として捉えることが可能なのだ。
私は本に付箋を貼ったり、アンダーラインを引いたりすることはまずない。目次とページ数があれば、ほぼ大体目的の場所へアプローチができる。読んで頭に入っている本ならそうなる。そうならない本は読めていないのだ。
別に速読術みたいなのを学んだわけではないが、読んだ本の情報は、そのまま画像として認識されている。それを参照しているにすぎないのだと思う。それにプラスして、イメージが付与されており、映像化したシナリオが、あたかも動画を見るように頭の中で再生されている。いかなる電子書籍もかなわないスピードでアクセス可能だ。つまみ食いしながら、手あかをつけながら、本の間にポテチを挟みながら、読んでいることもあり、その汚れもまた、情報として入っているので、これもまた、電子書籍には再現できない部分であ
私はずっとここにいるんだけれど、わかりやすい領域で私のイメージを作り上げている人に、ちょっと考えた内容を出してみたりすると、たちまち「❓」マークがたくさん出てしまう。でも無理に分かりやすくしようとすると、嘘になってしまうので、それは止めようと思う。上手い問いかけが必要かもしれない。
少子化対策には、結婚と出産を分けてしまうのがもっとも手っ取り早い。理由の如何に関わらず、生まれてくる命を保護する。それでいいと思う。結婚は別にあとでも構わないと思う。家制度なんていうのは、時代によって変わっていくものなので、自分の体験に固執することこそが、罪悪に等しい。
自民党と公明党の議論を見て、非常にアホらしくおもった。第一段階として、生まれてくる命を保護する。第二段階として、子どもの生活習慣を守る仕組みを作り身に付けてもらう。第三段階として、教育をうけられる機会をつくる。あとは自分で選んでいくだろう。こんなにシンプルなことなのにどうしてできないんだろう?
12月14日 20:10 ·
本当に大切なことは
言葉にできない
こともある。
人にものを伝えたり、教えたりするのは、相手にお酌をするようなものかもしれない。
相手のコップが飲み干されていないのに注いでもこぼれてしまって、お酒がもったいないし、ペースが早すぎると悪酔いして相手に不愉快な思いをさせる。かといってペースが遅すぎると、席を立ってかえってしまうだろう。渇望しているところへ適量を注ぐことが大切だ。返杯を受ける必要もあるかもね。
日本政府の政策が国民に支持されているかどうかをみるには、その政策が実行されているかどうかを見ればいい。
たとえば、有給休暇義務化を例にとって説明してみよう。
来年度より始まることが決定している。これは強行法規であり、罰則規定もあるれっきとした法律なのであるが、それが実行されるには何が必要だろうか?
法律としては
「年に10日以上の有給休暇が付与される従業員は、時期を指定して5日の有給を取得せねばならない」違反した場合は30万円の罰金となっている。
現在日本において有給休暇の取得率は50%前後である。大体において、その数字は体感的なものと一致する。有給休暇の度数分布表をみてみると、まったく有給休暇をがおよそ10%、完全消化をしているひとが10%ぐらい存在するので、全員が有給休暇を5日とれば、およそ、70%の有給休暇取得は達成できる。という政策である。
有給休暇取得には、お金と、代替要員、そして業務の見直しが必要だ。この三つが用意できなければ、有給休暇を取得することは不可能である。
1)お金
まず第一に企業経営者が有給休暇取得のためのお金を用意しなくてはいけない。有給休暇取得率が70%になるように人件費を配分をし直し、それを市場が評価することである。取得率が下がっている企業は、「倒産しかかっている」ぐらいの評価が定着する必要がある。
未取得の有給休暇はすべて負債として計上し、報告させればかなり効果があると思う。(IFRS)
2)代替要員の確保
これも重要である。同業種だったら機密保持契約を結んで、社員をシェアするぐらいの大胆な試みもあっていい。同じ業種の企業であれば、必要とするスキルも似通っているから、即戦力になるだろうし、企業間の交流も深まる。有給休暇取得をさせることを専門とする、プロフェッショナル集団の人材派遣会社も面白い。社名は決めてある「コピーロボット」(笑)
3)業務の見直し。
これも代替要員の確保がないと難しいものではあるのだが、いったん立ち止まって業務を見直し、有給休暇全員取得とするのが本筋である。これはオーナー、経営者、管理職、従業員全員が取り組むべきものである。
よく、同調圧力から有給が取りづらい。なんていわれることがあるが、これは実は関係ない。そもそも、有給がとれるだけの人件費予算が組まれていないのだから、とったら睨まれるに決まっているのである。法的には正しく、請求権もあるが、それを請求したらその会社から去らないといけないだろう。予算に関して発言権のある従業員はすくないだろうから。現場は決められた予算を執行する機関にすぎない。従業員にできるのは逃げることだけだ。
今の日本の会社の常識は、一体有給休暇が何日とれるのか、情報公開もなく、公平なルールもなく、我慢だけさせられていることが問題なのである。その企業の財務状況に応じて、必然的に有給休暇の取得日数は決まる。それを公開しないことが、不平不満の原因になっているのだろうと思う。
ちなみに、5日間の強制付与だけだったら、実に簡単。見せかけだけの営業日を土日祝に適当に設定し、期末に有給付与して、5日分の日当を払えばOK。実質的に賃金が増額し、支払われていれば、労働基準監督署は何も言わないでしょう。
来年度の有給休暇取得率がどれくらい上がるかで、日本政府の政策が国民に支持されているかどうかがわかる。行動するのは国民一人ひとりなので。
一通り整理できたのでアップしてみた。
平成から、次に元号に移る前にダミーに年号を入れてはどうだろうか?
ダミーの年号は「改元」とする。
今回の場合、
平成31年1月1日~平成31年4月30日まで
「改元」元年5月1日~「改元」元年12月31日
翌年から
「新元号」2年1月1日~12月31日
こうすればすっきりするのではないかと、システム的に思った。
記録の類は後で、「改元」の部分だけ「新元号」に差し替えたり、読み換えたりすればいいだけのこと。そうすると天皇の代替わりはおよそ5月から6月ぐらいの一年の真ん中あたりでやると準備期間を最も多くとることができるので、大体そこら辺に落ち着くのではないか?
時代に合わせて皇室典範も変えたほうがいい。
私を守ってくれたのは
無名戦士への祈り
だったと思う。
私もまた、無名の一市民として
その生を終えるだろう。
介護の仕事をしていれば、どこかで必ずといっていいほど、
「私は人の人生を縮めてしまった」
という罪悪感に駆られることがある。気にしない人もいる。でも結局は同じことで無意識下に抑圧しているに過ぎない。抑圧された違和感は必ずどこかで噴出する。どんなに素晴らしい介護のやり方をしても、衰えていく命を押しとどめることはできない。自分の生命もまた同様であることを、少しずつ感じることになる。時々見つめなおす必要がある。
ターミナルケアの一つ一つの判断を支えてくれるのは「精一杯自分がやったケア」だけである。それだけが、その時の心身を支えてくれる。人を見送るとき、一番身近にいた人が冷静で、ずっとあえなかった人が泣き叫ぶのもこのためだ。ターミナルまでの生活そのものが、静かにその人を見送ることができる条件であろう。
そんな後悔で、私のケアは成り立っている。「死者の声」が聞こえるような気がしてならないのだ。実際に印象深く見送ることが出来た方の声は、まだ、頭の中で思い出すことができる。声の記憶は残っている。とはいっても実は、私は結構勝手で、ターミナルの瞬間そのものを見てない。でも自分の最後のケアは覚えているというような中途半端な人間だ。ターミナルが見えてきた時には、それが最後のケアになるであろうことをいつも考えてはいるのだけれど。基本的にはケアは全て最後になる可能性があると思っている。
「高齢者だから、病気だから致し方なかった」
まあよく発せられるワードである。でも、どこまで悔いなくやったのか?それがひとりひとりに問われるのである。それが見送る、看取りということなのだろう。ある程度の社会において合意形成は必要だが、一人ひとりの思い、向き合い方も自分なりに結論を出す必要がある。
12月4日 19:43 ·
人生は
体力勝負
身体は
バランスよく
私は奇妙な社会のエアポケットにいる。制度上どこにも存在していない奇妙な存在になってしまった。あたかも幽霊のようである。生きながらにして幽霊になってしまったのだ。誰も存在をしるものもなく、手続きをきちんとすれば、突然消えても誰も気にしない存在である。気づくとそうなっていた。だから周りからは特段見えない存在だ。
経済とは人間の行動を数字で表したものである。
ここ数年、色々考えてみて出してみた結論がこれである。この数字の精度がいまいち曖昧であり、正確性に乏しいことが、今の日本経済の最大の問題点だ。不正確なデータから議論をしてもほとんど無意味である。実体経済は何も変わらないだろう。
貧者の行動が富者の財産となっている。だから富者は貧者の行動に関心を持ち行動せねばならない。貧者もまた富者の行動を制約していることを忘れてはいけない。相互に無関心であることが、不幸の原因だ。誰しも犠牲になり、自ら犠牲を払い、誰かの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけない。これが人間世界で生きていくルールだ。それに対する感謝と畏敬の念を持つことは、必要不可欠なことだ。
富者は取引によって、貧者の集団を取り替えることはたしかに可能だ。しかし、取り替える前の貧者の集団と、取り替えたあとのそれが同じように動く保証はまったくない。単純な数字の増減は、さほどの意味はない。貧者の行動が、富者のライフスタイルに合うものであるかどうか。案外そんなところが、資産安定の鍵であるように思うのだ。
性善説を取る富者は自らがとても残酷な存在であることに、目を背ける。自らが「悪」と認定されることを極端に怖がり、忌避する。だから「悪」を引き受けた人間が大きな資産を得ることがある。少なくとも自らの「悪」と向き合っているから。そういう存在のほうがリーダーとしては頼もしい。「悪」を忌避する富者は、つまるところ「悪」を人に押し付けているだけとも言える。
とかく最近現世利益のプラス思考ばかりが蔓延し、害悪と暴力を撒き散らしていると思う。本当に絶望のどん底まで落とされたあとのプラス思考なら、いいのだけれど。そうでないととても醜悪にしかみえない。
だから、あまりにも貧富の差が開きすぎると、貧者も富者もお互いの存在が理解の外になり、社会として成立しなくなる。膨大な富も意味をなさない。架空の数字になってしまう。それが今の日本の現状ではないかと思う。
わかりやすい例を出すなら、人間は生きていく以上、他の生物を殺して食さなければいけない。だから必要以上に貪ってはいけない。普通の社会なら他人を殺す必要はないが、誰かの犠牲によって自分の生活が成り立っていることは厳然たる事実だ。それに感謝することは、必要なんじゃないかと思うのだ。繰り返しになるが自分も犠牲になっている。そこに関心を持つことが「感謝」なんじゃないかと思うのだ。むやみやたらに感謝しても、違和感しかない。払われた犠牲に対して思いを馳せる。それが「感謝」だと思う。