マタニティーハラスメントはなぜ起きるのか?

妊娠出産をめぐるマタニティーハラスメントが跡を絶たない。これにはいくつかの原因がある。まず第一に、日本の企業組織は計画性のない人事が横行していること、属人的な業務だらけで、代わりがいないことが挙げられる。
それと根本的な勘違いとして、妊娠出産を人間がコントロールできると思い込んでいるところに最大の原因がある。生命に対する畏敬の念が失われているのである。
人にもよるだろうが、産休で抜けるなんてことはせいぜい1年か2年だろう。その程度のスケジューリングでさえ、今の日本企業ではできない。仕事を抜ければすべてが終わる。クビになるだけである。恵まれたホワイト企業ならば、そんなことはありませんと人は言うかもしれない。でもそれはブラック企業や組織によって支えられた結果かもしれない。次世代の育成というのは、社会を構成するすべての人たちが影響を受けることであるのに、自分たちだけ恵まれているというのはおかしいだろう。その場しのぎの考え方しか持っていない証拠である。
それと誰もが子供を作るとは限らない時代になっているので、子供のない人たちにとって見れば、なぜ人の子供のために自分たちが犠牲にならなくてはいけないのかという問いに応えることができない。これもマタニティーハラスメントを生む原因の一つだろう。
子育てしているグループと、子供のないグループとでは、断絶がある。これすらも意識していない人がほとんどだろう。結果的にはいかなる人間も次の世代に世話になることは確実なのであるが、なかなかそれは実感しにくい。子育て世代にとって見れば、独身男性なんかは、犯罪者予備軍としてしか見られていないだろう。独身男性としてもそう見られるのであれば、子育てしている人とは距離を置こうとする。子育て世代と、子どものない人間との間に伝え合う言葉が存在しないのだ。
この断絶を埋める作業をしなくてはいけない。子育てグループが子供のないグループに対して何ができるのか。この側面はほとんど語られていないのではないだろうか?子育てする人に対するアプローチは盛んに論じられてはいるけれど・・・。抜けた業務の穴を埋めればいいだけなのでまぁそんなに難しいことではない。でもそれも単なる現状維持と言われればそうだろうと思う。
子育て世代が子どものない人間に何ができるのか?あまりそういったアプローチは存在していないのではないだろうか?子育てをしない人達はすべて自業自得。それでいいんだろうか?そんな関係性ではどちらも行き詰まることは目に見えている。この問題に対しての答えを模索していかない限り、マタニティー・ハラスメントは起きてしまうだろう。
子どもを生むのは当然の権利。それはいいし、行使すべきだ。でも権利には義務が伴うことは当然とすると、その義務って何?っていわれるとハタと困るのである。子育て世代も子どものない人間も明確に答えられる人が果たしてがいるんだろうか?これを作っていく必要があるのだと思っている。子どもが自立しにくい世の中になったことも、こういう問題が背景にあるのかも知れない。
社会における義務とはなにか?議論すべき時に来ているのだと思う。納税はそのひとつに過ぎない。税金を払えばいいとか言うのも何もいったことにならない。問題は使い道だからだ。
問い続け、行動することによって言葉を紡ぎ出していくより他はないのかもしれない。

ルサンチマンと問題意識

ルサンチマンという言葉がある。
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ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」である。
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という意味であるが、なかなかに耳が痛い。負け犬の遠吠えといってもいい。それを問題意識へと昇華していくことで、物事にぶつかってきたつもりではあるのだが、なかなかに現状維持が精一杯である。実際には行動できないけど、気に食わない人間を想像上で攻撃するといった行為は誰しもやったことがあるとは思う。

ではなぜこういったことが起きるのだろうか?それはやはり、自分自身の刺激に対する感情がうまく処理できていないからではないだろうか?苛立っているときは得てして、過去の記憶を憎んでいることが多い。それが自動的に拡大再生産されていく。そして処理できなくなってルサンチマンとして蓄積され、厭世観までいってしまうのではないか。

自分にとって辛いことを引き起こす刺激を発する人間自体に、次第に憎しみが行くようになる。憎しみをぶつけられた方は、また憎しみで返す。憎悪の連鎖がそこで生まれていく。断ち切るには結局その組織から離れないといけないという事を繰り返してきたのではないか。

ここから問題意識を起こして行動に移り、問題を解決するには、一旦その苦しみを俎上にあげて客観視し、再度見つめなおす勇気が必要なのだ。それに麻痺していては問題の先送りに過ぎないだろう。ゆっくりとでも、少しずつでも進む勇気こそが、求められているものであろうと思うのだ。

憎しみをはじめとするマイナスの感情は身体の怒りだという。それを解いていけば、自然と怒りは消失していく。憎しみは身体に刻まれるものなのだろう。だからといって消えないわけでもない。人間は生きている限り変化を続けるのだから。

問題意識として昇華していくにはどうしたらいいのだろうか?やはり他人とのコミュニケーションによって、自らの憎しみを見つめ直す作業が不可欠であろう。信頼できる人間関係を持つことが、やはり重要なのである。鏡のような心を持つ人間の存在が不可欠だ。この鏡は必ずしもそのままを写すわけではなく、その人の観点、考え方、感じ方によって写る姿は異なるし、それでいいのだ。自らの苦しみを写し出すのは、時として迷惑をかけるんじゃないかと思って、ついつい控えてしまうことも多いが、時と場合によっては、それも必要なことがある。それにはやはり、人生のパートナーの存在が大きいと思う。

それと大切なのは、自らの肉体に対するアプローチだ。憎しみが生じているときは大抵身体も歪んでいる。これを正すことはかなり重要な要素となる。これを自覚していると他人の苦しみも理解できるようになる。これがよく忘れられている。身体の怒りにたいして向き合うことは、思考を整理することにも繋がる。しばしば人間は大脳のみで完結していると勘違いしていることが多いものだ。

エンストぎりぎりの攻防がMT上達のコツ

新車ならマツダデミオXDだよな。

中古車ならマーチ12S

だと思っている。このスペックを見ながら考えていたのだけれど、マツダのデミオであれば、多分エンストしない。22kg・mというぶっといトルクで1トンちょっとの車を動かすわけだから、強引に走っていける車だと思う。でもこれだとMTの運転はうまくならない。オートマの感覚で運転できてしまうから。入門編としてはいいのかも知れないけど、エンストしそうで怖いっていう感覚は、ドライバーにとってとても大事な感覚なのである。

こう考えるとやっぱり12kg・m程度のマーチのほうが、マニュアル車の運転を覚えるにはいいのかなとも思う。かなりクラッシックな車も運転できる伝統芸能という側面であれば、やはりそうしたほうがいいとも思う。ディーゼルの経済性は魅力なのではあるが。

ルノーカングーは、MTでゆったりと座れ、運転も楽しそうではある万能選手なのだけれど、デカイんだよなぁ・・。アルファード並みっていうのがでかすぎます。2世代ぐらい前のカングーはコンパクトでカッコいいのだが。結構走ってる車が多いんだよなぁ・・・。

7人のりとするならNV200を改造するっていうプランもあるけれど、車イス乗降or座席増設改造は面倒だな。MTでなければ存在するけどね。

86よりも、セリカのSS-Iがいいと思っている。FFのため、意外と広く、かつレギュラーガソリンってのがいい。問題は後ろの席が使いにくいことぐらいかなぁ。

スバルインプレッサかレガシィのワゴンがいいけど、小さいインプレッサの方に魅力を感じる。パワーを使いこなしながら乗りこなすのはやっぱりインプレッサだよなぁ。ワゴンであればいろんな荷物を積めるメリットがある。スバルの4WDには興味があるな。

ほどほどの大きさのマニュアル車を乗りこなすってのが目的だから、でかくてハイパワーがいいわけじゃないのである。アテンザのセダンなんかトルクが40キロもあるらしいが、それだとどんなギアでも走っていってしまうので、マニュアル車としての楽しみが減ってしまうんです。エンストはしないし、乗りやすくはありますがね。