ルサンチマンという言葉がある。
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ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーWikiより
という意味であるが、なかなかに耳が痛い。負け犬の遠吠えといってもいい。それを問題意識へと昇華していくことで、物事にぶつかってきたつもりではあるのだが、なかなかに現状維持が精一杯である。実際には行動できないけど、気に食わない人間を想像上で攻撃するといった行為は誰しもやったことがあるとは思う。
ではなぜこういったことが起きるのだろうか?それはやはり、自分自身の刺激に対する感情がうまく処理できていないからではないだろうか?苛立っているときは得てして、過去の記憶を憎んでいることが多い。それが自動的に拡大再生産されていく。そして処理できなくなってルサンチマンとして蓄積され、厭世観までいってしまうのではないか。
自分にとって辛いことを引き起こす刺激を発する人間自体に、次第に憎しみが行くようになる。憎しみをぶつけられた方は、また憎しみで返す。憎悪の連鎖がそこで生まれていく。断ち切るには結局その組織から離れないといけないという事を繰り返してきたのではないか。
ここから問題意識を起こして行動に移り、問題を解決するには、一旦その苦しみを俎上にあげて客観視し、再度見つめなおす勇気が必要なのだ。それに麻痺していては問題の先送りに過ぎないだろう。ゆっくりとでも、少しずつでも進む勇気こそが、求められているものであろうと思うのだ。
憎しみをはじめとするマイナスの感情は身体の怒りだという。それを解いていけば、自然と怒りは消失していく。憎しみは身体に刻まれるものなのだろう。だからといって消えないわけでもない。人間は生きている限り変化を続けるのだから。
問題意識として昇華していくにはどうしたらいいのだろうか?やはり他人とのコミュニケーションによって、自らの憎しみを見つめ直す作業が不可欠であろう。信頼できる人間関係を持つことが、やはり重要なのである。鏡のような心を持つ人間の存在が不可欠だ。この鏡は必ずしもそのままを写すわけではなく、その人の観点、考え方、感じ方によって写る姿は異なるし、それでいいのだ。自らの苦しみを写し出すのは、時として迷惑をかけるんじゃないかと思って、ついつい控えてしまうことも多いが、時と場合によっては、それも必要なことがある。それにはやはり、人生のパートナーの存在が大きいと思う。
それと大切なのは、自らの肉体に対するアプローチだ。憎しみが生じているときは大抵身体も歪んでいる。これを正すことはかなり重要な要素となる。これを自覚していると他人の苦しみも理解できるようになる。これがよく忘れられている。身体の怒りにたいして向き合うことは、思考を整理することにも繋がる。しばしば人間は大脳のみで完結していると勘違いしていることが多いものだ。