私のキャリアは2002年に終了した。

私は最初からドロップアウトをしている。大学を卒業し、適当に就職を決めた時点で、既にキャリアは終わっている。そこでもう、普通の暮らしは望めないことは確定していたのである。当たり前に就職し、家庭を持つ暮らしを持つ可能性はそこでなくなっていたのであった。一度レールから外れれば日本の社会は二度と元に戻ることはできないことを図らずも私は立証して見せたわけではある。
でもまあ、生きていることには違いないし、結婚もしている。でもこの厳然たる事実は違いはない。だから、私の人生は15年前に終わっている。そう考えてほぼ間違いはない。日本はそういう国だ。なんとなくごまかしてはいるけれども。
20代の私に名前はなかった。あるのは番号だけだった。人間ではなかったのだ。ロボットだったのである。存在を事実上消され、名乗ることも許されず20代は終わった。公式に私の20代を証明するものは何一つない。文字通り無名といってもいい。名前が存在しないのだから、私の存在を知る人もいないだろう。それはそれですっきりしていていい。仕事がなくなれば、来月から給料がない。それは当たり前のことであった。
リーマンショックというのがあって、仕事がなくなり、放り出された。いい加減仕事を探すのも疲れたので、介護の仕事を始めてみた。ずっと6年ほど、深い闇の中にいた。命を見つめることをずっと続けていた。頼むから死なないでくれと思う晩もあった。自分のエゴなのだけれど、それを続けると、「死なないでほしい」という願いに変わっていった。やはり、名前はなかった。それはそれでいい。
気持ちが澄んで冴えてくると、どんどん自分の存在が消えていくのがわかる。びっくりするほど周りの人は気づかなくなる。それはそれで面白い。あたかも私はいないように振舞う。時々拗ねたくなるのは、まだまだ未熟なのだろう。
貧富の差なんてものはたいした意味を持たない。お金というのは単なる数字であって、問題は人を動かすかどうかなのだから。命をいかに燃やすことができるのか。そちらのほうがよほど問題だ。富裕層はお金の量を管理し、貧困層はお金の制度を保障する。人間の計算能力にたいした違いはないから、必然的にそうなる。貧困層がいなければ、富裕層の富は、価値を失う。日本から出て行くのも手だが、出て行った先の外国の貧困層が富を保障するメカニズムには違いはない。言葉が通じる相手のほうがコントロールはしやすいのではないかと思う。
哀れに思う必要もないし、人をうらやむ必要もない。生きるエネルギーこそが、私に必要なものだから。
私の人生は、もうごく単純だ。両親と妻を見送って、ころりと死ねばいい。それを実現するためには、身体を最後まで動かして、長生きする必要がありそうだ。