介護施設におけるナースコール課金制は成立しない。

定期的にでてくる話題なので、それがなぜ実現しないのかを論じておこうと思います。よくありがちなグチとしてナースコール頻回の利用者に振り回されるあまり、一回あたり100円とかとったら、利用者が自制してナースコールを押すのを控えてくれる上に、介護施設の収入になってラッキーではないか?更に発展すると、たくさんナースコールをとった職員をカウントして、それを評価するのに使えるんじゃないかなんていう人もいます。

これはありえない話です。それを今から説明します。

例えば利用者が一回のナースコールを押したら100円ぐらい取られるとしましょう。ということはその利用者は自分のお金の金銭管理ができることになります。使った額を把握して自分の財産の範囲内でナースコールを押すことになるのですから。介護施設に入所する利用者で金銭管理を完璧にできる人ってまずいません。そういう方は多分介護施設に入所しなくても在宅で生活できるものと判断されるでしょう。

ナースコールが課金されたとしたら、今度は一回のコールで長時間ヘルパーを拘束し、なんでもやらせる可能性がありえます。猛烈ケチな方とかはやりそうです。一回分だからいいだろうと言われたらたまったものではありませんね。こういうことも防ぐ手立てがありません。

もう一つおかしいなと思うのは、ナースコール頻回に対して、何一つ分析を行っていないと思われる点です。照明のリモコンと間違っているのかも知れないし、時間感覚が失われているのかもしれない。それに対してナースコールが有効な手段とは言えない場合もありえます。定時巡回のほうがいいこともあります。一人一人を分析して、最適な支援を見つけ出すことは、介護職員の重要な仕事の一つ。これを放棄しているかに見えるんです。

さらには職員が不正を行う可能性が増すことです。ナンセンスコールと称して自作自演を行う可能性があることです。それでお金が取れるなら、やってしまう倫理感の低い人たちが出るでしょうね。特に職員の評価につながるのであれば、捏造する可能性は大いにありえます。それでいてお金とっていたら、それは詐欺じゃないでしょうか?

何かあったらナースコールを押してもらうようにすることが、入所施設での生活にはとても大切なことです。頻回ならその対策を考えるのが仕事。

いつの間にやら・・・。

なんだかんだで、このサイト放置してましたが、ちゃんと生きてましたね。やっぱりちゃんとお金払っててよかったな。コストと言っても年間1万円ちょっとってところです。一ヶ月1000円いかないぐらい。だからまぁ許してもらっています。

車は平成10年式ブルーバードから平成16年式のサニーになりました。動かなくはなかったんですが、アチコチ配管周りに水漏れ、油漏れが目立ちはじめまして、乗り換えました。少しサイズは小さくなりましたが(1800→1500)快適に乗っています。なかなか軽快でいい車です。しばらく遠出できなかったんですが、このまえ千葉県房総半島一周してきました。

ワードプレスから離れていた間にはじめてたのはツィッターかな。一応アカウントにこのサイトを乗せてはあるんですが。こちらです。@eu14mt1800ff

ツィッターでもまた興味深い議論がたくさんありますね。ああでも昔ここに自分のツィッターをまとめたりしてたっけか。

認知症と仮人格

認知症高齢者は、感覚器官からの情報も正しく処理できず、自らの生理的衝動をぶつけたり、暴力になってしまったりして混乱している。これに対してはどのように対処していくべきなのだろうか?

私は認知症高齢者に対しては、職員、家族などの支援者が仮人格を決めてしまい、それに則った行動をすることで、認知症高齢者の人格を再構成できるのではないかと考えている。高齢者はたくさんの人生を生きていて、様々な役割を果たしてきたことが多いから、想像力を膨らませれば。いろんな定義ができるだろうと思う。

特に施設などでは、いろんなスタッフがいるのだから、それぞれの知見をつなぎ合わせていて、認知症高齢者がどんな人だったか考えてみるといい。生活歴から正解を導き出そうとするのではなく、スタッフの私見でかまわないのである。むしろそちらのほうが仮人格にリアリティがまして、周りの反応が自然になるだろう。

認知症高齢者は今を生きるツールを失っている。それを如何にして回復させるかが、支援者の腕の見せ所であろう。仮人格はそのための定義、脚本と言ってもいい、スタッフと高齢者は役者、地域は観客である。わたしはこれこそバーちゃんリアリティと名付けたい。高いVRゴーグルがなくてもいつでもできるのである。

仮人格を与え振る舞っているうちに、どんどん仮人格から逸脱し、その人らしさを発揮していくのだ。そうなって安定していったら、その人格はその方のものだと思う。人間には膨大な情報が蓄積されているので、それを再構成すれば、日常生活を送る程度の人格を回復させるに充分である。環境をどう整えるかの問題は残るけれど、関係性の構築が容易であるならば、そんなに難しくはないとは思う。

認知症ケアはいつもドラマチックな劇場なのである。

その方はどんな方だと思う?っていうやり取りから全ては始まる。

介護業界における派遣の現状とその展開。

あまり文句ばっかりいっていてもしょうがないので、多少は建設的なことを書いてみようと思う。私は介護職員10年目、それ以前は登録型の派遣でいわゆるIT土方といわれる現場作業員として食いつないでいた。その経験から、介護業界における派遣の現状とその課題、さらにはその先の展開を考えてみることにする。

まず、現状の介護業界においては、派遣社員はあくまでも割高な欠員補充としてしか機能していないようだ。人材の品質は保証されなくてもしょうがないという感じ。とりあえず介護報酬の請求のため、頭数を揃えておこうという考え方でしかないようである。

人材派遣契約というのは、あくまでも一時的なものであって、恒久的なものではない。一時的に夜勤要員が足りないから手配するとか、産休の代理とかそういう使い方が本筋である。よってある程度の年月がたてば、派遣先への直接雇用を打診されるのは当然のことである。

同じ給料であっても、マージンが30%程度あることは珍しくないので、手取りは10%あげても、派遣会社に払うよりは得になることが多い。これがごく一般的な派遣の使い方である。

ワタリといわれる職人タイプを目指すのであれば、業務そのものを請け負うアウトソーサーを目指す方向になる。運転業務なんかは昔からそうだけど、介護現場における特定の分野に秀でたプロフェッショナルになることだ。排泄介助、食事介助、睡眠介助、入浴介助のエキスパートになることで、どんな施設でも品質の高いケアを提供できれば、それなりのコストを払う意味もあるだろう。教育要員としても重宝されるかもしれない。でもこれは自己研鑽が不可欠だろうと思う。

将来的には人材派遣会社が業務そのものを請け負う会社になっていく可能性もある。人材教育専門特化することで正社員の研修を請け負ったりする可能性もある。派遣会社が機密保持契約を結び、そのノウハウを一般化することができれば、これは大きな商品になっていくだろう。これには派遣社員のコミュニティが必要不可欠だが、機密保持のルールだけはしっかりしておかないと単なる情報漏洩になってしまう。でもこれによって業界のスタンダードができていく。

そういった流れはすでにSNS上にその萌芽がある。個人情報に配慮しつつ、特定されない形での情報公開は地道に進んでいる。こういった文脈のなかで介護業界における派遣は理解していくとよいと思う。

有給休暇はなぜとれないか?

なぜ?年次有給休暇は取得できないのか?

これか結構単純な理由である。その企業なり、組織なりが人件費の予算を組むときに、有給取得を前提に予算を組んでいないからだ。単純にそれだけのことである。大抵年次で予算は組まれるものだから、その時点で有給休暇をとれる日数のトータルは決まっている。現在の日本経済の常識は50%の取得にとどまっているのは、その程度の取得で、予算を組んでいるからである。それで決算を切って利益を出しているのだ。

だから有給休暇を取得させるには人件費の予算を決める段階で考えてもらえばいい。少なくとも1年しっかり働く前提でないと、やはり取得は難しいと思う。その程度の話し合いすら、現在の労使ではできていないのが現状だ。そのために経営者はどんぶり勘定でちょっと多目に人件費を積んでいるにすぎないのが現状。労働者側としては年間スケジュールとして、何日有給休暇をとるかを届け出る必要があり、それを前提に経営者は人件費予算を決定せねばいけない。

この取り決めがきちんとできていれば、有給休暇取得に理由を聞く必要もない。大体大枠で決めてあれば、予算や人員が苦しくなることはないはずだ。そもそも論として、いきなり明日有給休暇で休みますって言う前に、どのくらいの有給取得なのかを管理職と合意形成がされていれば、有給休暇取得に関わる不満は解消できる。

私は大体一ヶ月1日でお願いしている。まあ年間12日の消化になるわけで、まあまあのペースである。有給休暇と所要による欠勤は分けて考えるべきものだと思う。

経営者なり管理者なりは、人件費の予算を組む段階で、労働者が今後1年どんなペースで有給休暇を取得するかヒヤリングし、どれぐらいとれるかを明示すべきなのかと思います。このルールが確立すれば、有給休暇取得は常識になったと言えるだろう。

介護ロボットのある暮らし。

介護業界では、ロボット化することで介護負担を軽減し、少ないスタッフで介護施設を経営しようとしている。これを実現するプロセスをずっと考えていた。これには二つのアプローチが考えられる。

1・利用者側のアプローチ

2・スタッフ側からのアプローチ

である。どちらもやることはおなじである。障害を持つ人が操作しやすいロボをつくるか、介助しやすいロボを作るかの違いでしかない。

音声入力、手持ちのタッチパネルを使って、座ったまま家の機械を操作する仕組みがまず考えられる。電気をつける、消す、テレビをつける、消す、食事を用意する。車イスへ単独移乗をする。布団をかけるなどの作業を、障害を持った高齢者が操作することでできる仕組みがあれば、必ずしも介助者不要で、独り暮らしをすることができるだろう。排泄に関しても同様である。ベッド→車イス→トイレへの移乗が完全自動化していれば、介助者なくして独居で生活することは可能だろう。食事は、宅配、配膳さえできればいい。こういった住宅を作ることが、高齢者の独り暮らしに必要になってくる。

介助側で考えるならば、パワードスーツにより、重たい方の移乗を用意にすることが考えられるが、これには免許制度が必要になるかもしれない。事故を起こせば、介助者も利用者も大ケガで障害を負うなんてことにもなりかねないから。すでに電動車イスの事故は密かな問題になっている。

ロボット化で効果が見込めるのは、記録、情報収集、分析の分野だ。そのまま請求処理に回す枠組みを作れば、無駄な業務が一気に減る。スタッフの業務をなるべく止めずに自動的に記録を行う仕組みをどうやって作るかが鍵になる。なんにせよ利用者の自立支援の枠組みなしに、介護負担が軽減することはあり得ない。

岡田沙織さんという方がいる。あなたは何も悪くない。

この方と少しだけやり取りさせていただいたが、本当に素晴らしい方である。この人への協力はそのまま社会貢献になると思っている。それぐらい、今、苦しんでいる人たちへ手をさしのべている人だ。

岡田沙織さんはこんな方。

暖かで落ち着いた声。穏やかで冷静な視線。こういう人が苦しんでいる人を救っていくんだろうなあと思う。スッと心のブロックを解除するような、そんなふるまいが自然にできる方である。

リアルに岡田沙織さんの声を聞きたい方は、毎週水曜日16時から渋谷クロスFMにて生放送が聞けます。渋谷クロスFM

アマゾンからはこちら。

あなたはなにも悪くない。

私もこの本を読んだが、究極のリアリズムだと思った。困難な状況を乗り越えて一歩を踏み出すには、こういうスタンスで望む必要があるのだなと学ぶことができた。気づいてみたら、あ、そういうことなんだというぐらい簡単なことなんだけれど、なかなかに、それを認めたがらない常識や、固定観念といったものが邪魔をする。自分がどう回りの状況を認識し、一歩一歩踏み出していくのか。そのヒントはどんな人の前にもあって、それに気づかないだけなんだなと。いや、あえて気づこうとせずに、苦しみ続けてしまったのかもしれない。

私のなかで古びた心理学の知識、知見が、久しぶりに顔をだし、また新しい本も読みたくなってきた。岡田沙織さんはかなりしっかりと勉強されておられるなと、読書中に感じた。心理学で言うところの自我、超自我等の考え方も、さらっと出てきていたように思った。大学1年生ぐらいで読むとちょうどいいんじゃないかと思う。

岡田さんのやろうとしていることが、組織化され、より多くの子供たちのもとへ届けばいいと思っている。それは社会を守る強い強い力になると思うのだ。だから協力したいと思うのだけれど、いかんせん、私もすぐには動けない。家族もいるし、仕事もある。でもそれでもできることはあるんじゃないか。そんな風にいつも思っている。

何かいいことをしたい。という人は数多い。でもどうしていいかわからないという人が大半だ。そんな方も、自分自身が穏やかになって街角を歩き、心地よい状態で過ごせば、それだけで人を助けることもある。助けられることだってある。疑惑と不信に染められてしまったこの日本で、一人でも多くの心が豊かになり、よい方向へと向くようになるといいなと思う。岡田沙織さんの取り組みはそんな一歩でもある。

単純に励ますことは簡単で無責任だ。今苦しんでいる状況をどう受け止めて、次に進んでいくか。それが求められているんだと私は思う。

一読をおすすめする本である。

2018年12月分 いろいろありました。

しばらく放置でしたが、フェイスブック上ではまとまった文章を書くようにしてましたので、そこら辺をコピペでアーカイブ作業としたいと思います。

2018/12/24

学生の頃から若者文化には馴染めなかった。未だに苦手である。
本を読んだりして、「民主主義とは理論的科学的に名君を作る制度なのか?」などと考えていた人間だったから、他の学生と打ち解けられるはずもなく(その考えは現実の衆愚政治によって打ち砕かれたが)いつも学校では浮いていたと思う。それが故に、きちんとしていないと自分の居場所はなくなってしまう。
わけのわからない人間だけれども、やることはやるということで、かろうじて学生内で居場所を認めてもらっていた存在であったのだろう。敬遠はされていたけれども。いつしかそれが私の普通になっていた。
コンピューターテクノロジーに興味を示したのも、そちらのほうが人間よりも人間味あふれる存在に思えたからだ。歴史も同様である。歴史は人間学だから、なおのことそうである。歴史と自然に語り合うほうが現実世界より素晴らしく思えたのかもしれない。こういう疎外感が私の心の骨格をなしている。

12月21日 21:17 ·

手柄とか功績というのは、すべて他人に渡してしまっていい。そうしてしまう方が気楽でいい。そっちのほうがうまく行く。
他人に手柄や功績を渡すとどうなるか?2つの場合が考えられる。
1)渡された手柄や功績が自分の手柄だと思い込む。
2)手柄を渡されたことに気づき、自分のものにする。
このどちらかになるだろう。1)の場合は簡単だ。功績を渡したほうがいなくなればたちまち自滅する。実に単純。2)の場合は、渡された手柄や功績に依存するようになる。そうすると自分で何もできなくなり、功績を渡した方の思うがままになってしまう。
どちらの場合も功績を渡すと相手をコントロールできてしまうことになる。コントロールできない場合は、自分では功績を立てたと思っていても、ちっとも功績じゃなかったということになる。功績なんてそんなものである。だからどんどん周りの人に功績なんか渡してしまおう。渡すことによってまた自分の功績とは何だったのかを理解することもできる。
ただし、自分だけには嘘をつかないこと。自分のやったことだけは自分で評価することだ。それさえ守っていれば人を妬むこともないし、妬まれることもない。実に気楽なものである。

12月17日 19:55 ·

会社のそばの図書館へいってみた。図書館にしても本屋にしても古本屋にしても、はじめて訪れる場合は、まず、すべての書棚を一回りする。本を手に取ることはしない。ずらりと並んだ題名をひとつの文章として読んでいく。図書館をひとつの本としてまずは捉えるのである。そうするとその図書館のシナリオが見えてくる。それを一通り眺めてから、好きな本を手にとる。そうすると必要な本が目に飛び込んでくるようになり、スムーズに取り出すことができる。図書館はこのように楽しい場所である。規則正しくならんでいるので必然的に文章として捉えることが可能なのだ。
私は本に付箋を貼ったり、アンダーラインを引いたりすることはまずない。目次とページ数があれば、ほぼ大体目的の場所へアプローチができる。読んで頭に入っている本ならそうなる。そうならない本は読めていないのだ。
別に速読術みたいなのを学んだわけではないが、読んだ本の情報は、そのまま画像として認識されている。それを参照しているにすぎないのだと思う。それにプラスして、イメージが付与されており、映像化したシナリオが、あたかも動画を見るように頭の中で再生されている。いかなる電子書籍もかなわないスピードでアクセス可能だ。つまみ食いしながら、手あかをつけながら、本の間にポテチを挟みながら、読んでいることもあり、その汚れもまた、情報として入っているので、これもまた、電子書籍には再現できない部分であ

12月16日 14:09 ·

私はずっとここにいるんだけれど、わかりやすい領域で私のイメージを作り上げている人に、ちょっと考えた内容を出してみたりすると、たちまち「❓」マークがたくさん出てしまう。でも無理に分かりやすくしようとすると、嘘になってしまうので、それは止めようと思う。上手い問いかけが必要かもしれない。

12月16日 14:05 ·

少子化対策には、結婚と出産を分けてしまうのがもっとも手っ取り早い。理由の如何に関わらず、生まれてくる命を保護する。それでいいと思う。結婚は別にあとでも構わないと思う。家制度なんていうのは、時代によって変わっていくものなので、自分の体験に固執することこそが、罪悪に等しい。
自民党と公明党の議論を見て、非常にアホらしくおもった。第一段階として、生まれてくる命を保護する。第二段階として、子どもの生活習慣を守る仕組みを作り身に付けてもらう。第三段階として、教育をうけられる機会をつくる。あとは自分で選んでいくだろう。こんなにシンプルなことなのにどうしてできないんだろう?

12月14日 20:10 ·

本当に大切なことは
言葉にできない
こともある。

12月11日 6:55 ·

人にものを伝えたり、教えたりするのは、相手にお酌をするようなものかもしれない。
相手のコップが飲み干されていないのに注いでもこぼれてしまって、お酒がもったいないし、ペースが早すぎると悪酔いして相手に不愉快な思いをさせる。かといってペースが遅すぎると、席を立ってかえってしまうだろう。渇望しているところへ適量を注ぐことが大切だ。返杯を受ける必要もあるかもね。

12月9日 13:08 ·

日本政府の政策が国民に支持されているかどうかをみるには、その政策が実行されているかどうかを見ればいい。
たとえば、有給休暇義務化を例にとって説明してみよう。
来年度より始まることが決定している。これは強行法規であり、罰則規定もあるれっきとした法律なのであるが、それが実行されるには何が必要だろうか?

法律としては
「年に10日以上の有給休暇が付与される従業員は、時期を指定して5日の有給を取得せねばならない」違反した場合は30万円の罰金となっている。

現在日本において有給休暇の取得率は50%前後である。大体において、その数字は体感的なものと一致する。有給休暇の度数分布表をみてみると、まったく有給休暇をがおよそ10%、完全消化をしているひとが10%ぐらい存在するので、全員が有給休暇を5日とれば、およそ、70%の有給休暇取得は達成できる。という政策である。

有給休暇取得には、お金と、代替要員、そして業務の見直しが必要だ。この三つが用意できなければ、有給休暇を取得することは不可能である。

1)お金
まず第一に企業経営者が有給休暇取得のためのお金を用意しなくてはいけない。有給休暇取得率が70%になるように人件費を配分をし直し、それを市場が評価することである。取得率が下がっている企業は、「倒産しかかっている」ぐらいの評価が定着する必要がある。
未取得の有給休暇はすべて負債として計上し、報告させればかなり効果があると思う。(IFRS)

2)代替要員の確保
これも重要である。同業種だったら機密保持契約を結んで、社員をシェアするぐらいの大胆な試みもあっていい。同じ業種の企業であれば、必要とするスキルも似通っているから、即戦力になるだろうし、企業間の交流も深まる。有給休暇取得をさせることを専門とする、プロフェッショナル集団の人材派遣会社も面白い。社名は決めてある「コピーロボット」(笑)

3)業務の見直し。
これも代替要員の確保がないと難しいものではあるのだが、いったん立ち止まって業務を見直し、有給休暇全員取得とするのが本筋である。これはオーナー、経営者、管理職、従業員全員が取り組むべきものである。

よく、同調圧力から有給が取りづらい。なんていわれることがあるが、これは実は関係ない。そもそも、有給がとれるだけの人件費予算が組まれていないのだから、とったら睨まれるに決まっているのである。法的には正しく、請求権もあるが、それを請求したらその会社から去らないといけないだろう。予算に関して発言権のある従業員はすくないだろうから。現場は決められた予算を執行する機関にすぎない。従業員にできるのは逃げることだけだ。

今の日本の会社の常識は、一体有給休暇が何日とれるのか、情報公開もなく、公平なルールもなく、我慢だけさせられていることが問題なのである。その企業の財務状況に応じて、必然的に有給休暇の取得日数は決まる。それを公開しないことが、不平不満の原因になっているのだろうと思う。

ちなみに、5日間の強制付与だけだったら、実に簡単。見せかけだけの営業日を土日祝に適当に設定し、期末に有給付与して、5日分の日当を払えばOK。実質的に賃金が増額し、支払われていれば、労働基準監督署は何も言わないでしょう。

来年度の有給休暇取得率がどれくらい上がるかで、日本政府の政策が国民に支持されているかどうかがわかる。行動するのは国民一人ひとりなので。

一通り整理できたのでアップしてみた。

12月9日 11:11 ·

平成から、次に元号に移る前にダミーに年号を入れてはどうだろうか?
ダミーの年号は「改元」とする。
今回の場合、
平成31年1月1日~平成31年4月30日まで
「改元」元年5月1日~「改元」元年12月31日

翌年から
「新元号」2年1月1日~12月31日

こうすればすっきりするのではないかと、システム的に思った。
記録の類は後で、「改元」の部分だけ「新元号」に差し替えたり、読み換えたりすればいいだけのこと。そうすると天皇の代替わりはおよそ5月から6月ぐらいの一年の真ん中あたりでやると準備期間を最も多くとることができるので、大体そこら辺に落ち着くのではないか?

時代に合わせて皇室典範も変えたほうがいい。

12月8日 7:28 ·

私を守ってくれたのは
無名戦士への祈り
だったと思う。
私もまた、無名の一市民として
その生を終えるだろう。

12月5日 10:47 ·

介護の仕事をしていれば、どこかで必ずといっていいほど、

「私は人の人生を縮めてしまった」

という罪悪感に駆られることがある。気にしない人もいる。でも結局は同じことで無意識下に抑圧しているに過ぎない。抑圧された違和感は必ずどこかで噴出する。どんなに素晴らしい介護のやり方をしても、衰えていく命を押しとどめることはできない。自分の生命もまた同様であることを、少しずつ感じることになる。時々見つめなおす必要がある。

ターミナルケアの一つ一つの判断を支えてくれるのは「精一杯自分がやったケア」だけである。それだけが、その時の心身を支えてくれる。人を見送るとき、一番身近にいた人が冷静で、ずっとあえなかった人が泣き叫ぶのもこのためだ。ターミナルまでの生活そのものが、静かにその人を見送ることができる条件であろう。

そんな後悔で、私のケアは成り立っている。「死者の声」が聞こえるような気がしてならないのだ。実際に印象深く見送ることが出来た方の声は、まだ、頭の中で思い出すことができる。声の記憶は残っている。とはいっても実は、私は結構勝手で、ターミナルの瞬間そのものを見てない。でも自分の最後のケアは覚えているというような中途半端な人間だ。ターミナルが見えてきた時には、それが最後のケアになるであろうことをいつも考えてはいるのだけれど。基本的にはケアは全て最後になる可能性があると思っている。

「高齢者だから、病気だから致し方なかった」

まあよく発せられるワードである。でも、どこまで悔いなくやったのか?それがひとりひとりに問われるのである。それが見送る、看取りということなのだろう。ある程度の社会において合意形成は必要だが、一人ひとりの思い、向き合い方も自分なりに結論を出す必要がある。

12月4日 19:43 ·


人生は
体力勝負
身体は
バランスよく

12月3日 20:12 ·

私は奇妙な社会のエアポケットにいる。制度上どこにも存在していない奇妙な存在になってしまった。あたかも幽霊のようである。生きながらにして幽霊になってしまったのだ。誰も存在をしるものもなく、手続きをきちんとすれば、突然消えても誰も気にしない存在である。気づくとそうなっていた。だから周りからは特段見えない存在だ。

12月2日 18:11 ·

経済とは人間の行動を数字で表したものである。
ここ数年、色々考えてみて出してみた結論がこれである。この数字の精度がいまいち曖昧であり、正確性に乏しいことが、今の日本経済の最大の問題点だ。不正確なデータから議論をしてもほとんど無意味である。実体経済は何も変わらないだろう。
貧者の行動が富者の財産となっている。だから富者は貧者の行動に関心を持ち行動せねばならない。貧者もまた富者の行動を制約していることを忘れてはいけない。相互に無関心であることが、不幸の原因だ。誰しも犠牲になり、自ら犠牲を払い、誰かの犠牲の上に成り立っていることを忘れてはいけない。これが人間世界で生きていくルールだ。それに対する感謝と畏敬の念を持つことは、必要不可欠なことだ。
富者は取引によって、貧者の集団を取り替えることはたしかに可能だ。しかし、取り替える前の貧者の集団と、取り替えたあとのそれが同じように動く保証はまったくない。単純な数字の増減は、さほどの意味はない。貧者の行動が、富者のライフスタイルに合うものであるかどうか。案外そんなところが、資産安定の鍵であるように思うのだ。
性善説を取る富者は自らがとても残酷な存在であることに、目を背ける。自らが「悪」と認定されることを極端に怖がり、忌避する。だから「悪」を引き受けた人間が大きな資産を得ることがある。少なくとも自らの「悪」と向き合っているから。そういう存在のほうがリーダーとしては頼もしい。「悪」を忌避する富者は、つまるところ「悪」を人に押し付けているだけとも言える。

とかく最近現世利益のプラス思考ばかりが蔓延し、害悪と暴力を撒き散らしていると思う。本当に絶望のどん底まで落とされたあとのプラス思考なら、いいのだけれど。そうでないととても醜悪にしかみえない。

だから、あまりにも貧富の差が開きすぎると、貧者も富者もお互いの存在が理解の外になり、社会として成立しなくなる。膨大な富も意味をなさない。架空の数字になってしまう。それが今の日本の現状ではないかと思う。

わかりやすい例を出すなら、人間は生きていく以上、他の生物を殺して食さなければいけない。だから必要以上に貪ってはいけない。普通の社会なら他人を殺す必要はないが、誰かの犠牲によって自分の生活が成り立っていることは厳然たる事実だ。それに感謝することは、必要なんじゃないかと思うのだ。繰り返しになるが自分も犠牲になっている。そこに関心を持つことが「感謝」なんじゃないかと思うのだ。むやみやたらに感謝しても、違和感しかない。払われた犠牲に対して思いを馳せる。それが「感謝」だと思う。