マタニティーハラスメントはなぜ起きるのか?

妊娠出産をめぐるマタニティーハラスメントが跡を絶たない。これにはいくつかの原因がある。まず第一に、日本の企業組織は計画性のない人事が横行していること、属人的な業務だらけで、代わりがいないことが挙げられる。
それと根本的な勘違いとして、妊娠出産を人間がコントロールできると思い込んでいるところに最大の原因がある。生命に対する畏敬の念が失われているのである。
人にもよるだろうが、産休で抜けるなんてことはせいぜい1年か2年だろう。その程度のスケジューリングでさえ、今の日本企業ではできない。仕事を抜ければすべてが終わる。クビになるだけである。恵まれたホワイト企業ならば、そんなことはありませんと人は言うかもしれない。でもそれはブラック企業や組織によって支えられた結果かもしれない。次世代の育成というのは、社会を構成するすべての人たちが影響を受けることであるのに、自分たちだけ恵まれているというのはおかしいだろう。その場しのぎの考え方しか持っていない証拠である。
それと誰もが子供を作るとは限らない時代になっているので、子供のない人たちにとって見れば、なぜ人の子供のために自分たちが犠牲にならなくてはいけないのかという問いに応えることができない。これもマタニティーハラスメントを生む原因の一つだろう。
子育てしているグループと、子供のないグループとでは、断絶がある。これすらも意識していない人がほとんどだろう。結果的にはいかなる人間も次の世代に世話になることは確実なのであるが、なかなかそれは実感しにくい。子育て世代にとって見れば、独身男性なんかは、犯罪者予備軍としてしか見られていないだろう。独身男性としてもそう見られるのであれば、子育てしている人とは距離を置こうとする。子育て世代と、子どものない人間との間に伝え合う言葉が存在しないのだ。
この断絶を埋める作業をしなくてはいけない。子育てグループが子供のないグループに対して何ができるのか。この側面はほとんど語られていないのではないだろうか?子育てする人に対するアプローチは盛んに論じられてはいるけれど・・・。抜けた業務の穴を埋めればいいだけなのでまぁそんなに難しいことではない。でもそれも単なる現状維持と言われればそうだろうと思う。
子育て世代が子どものない人間に何ができるのか?あまりそういったアプローチは存在していないのではないだろうか?子育てをしない人達はすべて自業自得。それでいいんだろうか?そんな関係性ではどちらも行き詰まることは目に見えている。この問題に対しての答えを模索していかない限り、マタニティー・ハラスメントは起きてしまうだろう。
子どもを生むのは当然の権利。それはいいし、行使すべきだ。でも権利には義務が伴うことは当然とすると、その義務って何?っていわれるとハタと困るのである。子育て世代も子どものない人間も明確に答えられる人が果たしてがいるんだろうか?これを作っていく必要があるのだと思っている。子どもが自立しにくい世の中になったことも、こういう問題が背景にあるのかも知れない。
社会における義務とはなにか?議論すべき時に来ているのだと思う。納税はそのひとつに過ぎない。税金を払えばいいとか言うのも何もいったことにならない。問題は使い道だからだ。
問い続け、行動することによって言葉を紡ぎ出していくより他はないのかもしれない。

ルサンチマンと問題意識

ルサンチマンという言葉がある。
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ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」である。
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という意味であるが、なかなかに耳が痛い。負け犬の遠吠えといってもいい。それを問題意識へと昇華していくことで、物事にぶつかってきたつもりではあるのだが、なかなかに現状維持が精一杯である。実際には行動できないけど、気に食わない人間を想像上で攻撃するといった行為は誰しもやったことがあるとは思う。

ではなぜこういったことが起きるのだろうか?それはやはり、自分自身の刺激に対する感情がうまく処理できていないからではないだろうか?苛立っているときは得てして、過去の記憶を憎んでいることが多い。それが自動的に拡大再生産されていく。そして処理できなくなってルサンチマンとして蓄積され、厭世観までいってしまうのではないか。

自分にとって辛いことを引き起こす刺激を発する人間自体に、次第に憎しみが行くようになる。憎しみをぶつけられた方は、また憎しみで返す。憎悪の連鎖がそこで生まれていく。断ち切るには結局その組織から離れないといけないという事を繰り返してきたのではないか。

ここから問題意識を起こして行動に移り、問題を解決するには、一旦その苦しみを俎上にあげて客観視し、再度見つめなおす勇気が必要なのだ。それに麻痺していては問題の先送りに過ぎないだろう。ゆっくりとでも、少しずつでも進む勇気こそが、求められているものであろうと思うのだ。

憎しみをはじめとするマイナスの感情は身体の怒りだという。それを解いていけば、自然と怒りは消失していく。憎しみは身体に刻まれるものなのだろう。だからといって消えないわけでもない。人間は生きている限り変化を続けるのだから。

問題意識として昇華していくにはどうしたらいいのだろうか?やはり他人とのコミュニケーションによって、自らの憎しみを見つめ直す作業が不可欠であろう。信頼できる人間関係を持つことが、やはり重要なのである。鏡のような心を持つ人間の存在が不可欠だ。この鏡は必ずしもそのままを写すわけではなく、その人の観点、考え方、感じ方によって写る姿は異なるし、それでいいのだ。自らの苦しみを写し出すのは、時として迷惑をかけるんじゃないかと思って、ついつい控えてしまうことも多いが、時と場合によっては、それも必要なことがある。それにはやはり、人生のパートナーの存在が大きいと思う。

それと大切なのは、自らの肉体に対するアプローチだ。憎しみが生じているときは大抵身体も歪んでいる。これを正すことはかなり重要な要素となる。これを自覚していると他人の苦しみも理解できるようになる。これがよく忘れられている。身体の怒りにたいして向き合うことは、思考を整理することにも繋がる。しばしば人間は大脳のみで完結していると勘違いしていることが多いものだ。

エンストぎりぎりの攻防がMT上達のコツ

新車ならマツダデミオXDだよな。

中古車ならマーチ12S

だと思っている。このスペックを見ながら考えていたのだけれど、マツダのデミオであれば、多分エンストしない。22kg・mというぶっといトルクで1トンちょっとの車を動かすわけだから、強引に走っていける車だと思う。でもこれだとMTの運転はうまくならない。オートマの感覚で運転できてしまうから。入門編としてはいいのかも知れないけど、エンストしそうで怖いっていう感覚は、ドライバーにとってとても大事な感覚なのである。

こう考えるとやっぱり12kg・m程度のマーチのほうが、マニュアル車の運転を覚えるにはいいのかなとも思う。かなりクラッシックな車も運転できる伝統芸能という側面であれば、やはりそうしたほうがいいとも思う。ディーゼルの経済性は魅力なのではあるが。

ルノーカングーは、MTでゆったりと座れ、運転も楽しそうではある万能選手なのだけれど、デカイんだよなぁ・・。アルファード並みっていうのがでかすぎます。2世代ぐらい前のカングーはコンパクトでカッコいいのだが。結構走ってる車が多いんだよなぁ・・・。

7人のりとするならNV200を改造するっていうプランもあるけれど、車イス乗降or座席増設改造は面倒だな。MTでなければ存在するけどね。

86よりも、セリカのSS-Iがいいと思っている。FFのため、意外と広く、かつレギュラーガソリンってのがいい。問題は後ろの席が使いにくいことぐらいかなぁ。

スバルインプレッサかレガシィのワゴンがいいけど、小さいインプレッサの方に魅力を感じる。パワーを使いこなしながら乗りこなすのはやっぱりインプレッサだよなぁ。ワゴンであればいろんな荷物を積めるメリットがある。スバルの4WDには興味があるな。

ほどほどの大きさのマニュアル車を乗りこなすってのが目的だから、でかくてハイパワーがいいわけじゃないのである。アテンザのセダンなんかトルクが40キロもあるらしいが、それだとどんなギアでも走っていってしまうので、マニュアル車としての楽しみが減ってしまうんです。エンストはしないし、乗りやすくはありますがね。

富裕層と貧困層の関係

富裕層の資産と貧困層の行動は相互に関連している。貧困層の行動が富裕層の資産としてまとめられているといってもいい。

富裕層の富とは貧困層の行動によって保証されている。どんな資産でもいいが、分かりやすく高価な土地を持っている富裕層の資産を考えてみよう。銀座の一等地とかそういう土地だと思ってもらいたい。

土地は買う人がいるから価値を持つ。その価値を保証しているのは、そこに店なり、住宅なりをたてれば、住んでくれたり、店が儲けを出すことができるからだ。お店が儲かるにはお客さんがたくさん来てお金を使ってもらわねばならない。大多数の貧困層がそこで消費活動をしなければ、土地は資産価値を持つことはない。山奥の土地がほとんど価値がないのも、人間が来ないし、そこで活動をしていないからだ。これが観光地となってたくさんの人が来れば、その土地はたちまち価値を持つことになるだろう。

大多数をしめる貧困層の活動なくして、富裕層の資産は保証されないことがわかるだろう。私はこの構造がなぜ起きるのかを考えてみた時に、一つの発見をした。それは4桁の有効数字である。数字を計算するときに何桁まで計算できるだろうか?

31億3525万2756円。

この10桁の数字をいわれて、ピンとくるだろうか?値札にこれだけ付いていたとしても、正確にイメージできる人はほとんどいないだろう。莫大な財産を持つ富裕層でもこれは同じ。31.35億というふうな認識をするのではないだろうか?こうすると有効桁数はおよそ4桁ぐらいになるだろう。人間が処理できる有効桁数は大体4桁に収まるのではないだろうか?
4分の1を表すのに、0.25という単位は便利だから、小数点第二位ぐらいまではあるといい。富の単位を表すのに、

億の単位で考える人
万の単位で考える人
千の単位で考える人
一の単位で考える人

がいるだけのことなのだ。数字が大きいから偉いとか、優れているというわけでもない。微生物と、象がどっちが偉いとか言うぐらい意味のないことである。象は大きいが、微生物がもたらす病気で死ぬことがあるし、微生物はまた象がもたらす生命活動に依存して生きているのだから。

富裕層の人間で時々怯えながら暮らして、自分できれいな牢獄みたいな家に住んで、外へ出ないで暮らす人がある。私に言わせれば既に病気だと思う。おそらくは不確定なものを排除し、精神的な安定を得て引きこもっているのだろう。それはおそらく、自分の資産が他人によってコントロールされていることを感覚的に理解していながら、意識レベルで認めたくないんだと思う。

それならば、積極的に自分の資産を支える人と交流をして、よりよい関係を築いて行きさえすれば、更に資産は安定し発展していくと思うのだけれど、そのやり方が失われてしまったのが、現代の世界であると思う。それを私は模索していきたい。プラス思考によって、それに対峙しなかったことは否めない事実である。

とりえあえずは、人間以前に自然と一体になることが楽しくて、あんまり私は人間を相手にしてないことが、今の自分の経済的な位置を決めている。ということは言えそうだ。面倒くさがりなのである。私は。

富裕になるということは、つまるところ大多数の人間に、自分のライフスタイルを認めてもらい、行動してもらうということにつきるのではないだろうか?それに違和感が生じたりすれば、大多数の貧困層から見放されてしまう。そういうエネルギッシュな状態こそが、活性化された経済といえるのではないか。閉塞感がある今の日本は、無理やり富裕層が貧困層にライフスタイルを強要させて、それがなんかおかしいので、反発を買っているのだと思う。

努力した人間ほど「刻苦勉励」が好きだけど、それがどうもライフスタイルにあってないので、つまんなくて閉塞感があるのでは?

ゆるやかに、外部の自然を、体内の自然と融合させつつ生きるスタイルを提唱できたら面白いと思っている。

プロの仕事は身近にある。

ふとみあげるとそこにプロの仕事があった。

何気ない電柱に見えるかもしれないが、これはプロの仕事だ。当たり前に電気やインターネットができるのは、日本中にこんなプロの仕事が結果を出しているからだ。こんな電柱は日本中に無数にあると思う。日本に住んでいる人が当たり前に電気を使えて、当たり前にインターネットを使えるのも、こういうプロの仕事があるからだ。
もちろん、こういうふうに線を這わせるべき、というマニュアルがあって、それにのっとってやっていることは間違いないのだが、現場は千差万別である。24時間、365日、一定の期間、風雨や暑さ寒さに耐えて機能し続けなければいけない。電柱の一本一本の距離でも長さは違うし、きちんと規格にあったやり方をしないとたちまち断線をしてしまう。やり方を間違ったら付近一帯停電になる。はしごを登ってたどり着いた世界は、プロフェッショナルの世界なのだ。
誰も当たり前だと思っているので、気にもとめないのだが、たしかにそこには本物の仕事がある。電気、ガス、水道といったインフラ整備はそういうものだ。できて当たり前。そういう仕事も世の中にはある。
自動車整備もそうだ。キーをひねって、エンジンかかるのが当たり前。これもしっかりとした整備を日々行なってくれている人たちのおかげなのだ。それ以前になるべく壊れないような設計をしているのだけれど、使い方次第では持ちもするし、すぐ壊れることもある。そういうノウハウは、だいぶ失われているなぁとも思う。
海外へ行くと電化製品がすぐ壊れるそうである。日本の安定した電源を前提に設計されている電化製品が、しょっちゅう停電する国に行けば、あっさり壊れてしまうだろう。瞬停といって、ほんの僅かな時間の停電を繰り返すようなことがあると、ハイテク機器は致命的なダメージを受ける。そうなると自分で電源を持つしかない。バッテリ駆動であれば、瞬停をある程度カバーすることができるけれど、いつもバッテリを持ち歩くのは大変だと思う。
このようにインフラの品質は、日々の生活に大変な影響があるのだ。どこでも精密な電子機器が機能するということが、いかに素晴らしいことかは、日本からでないとなかなかわからないことである。それを支えているのが、プロフェッショナルの仕事なのだ。それにたいしては相応の敬意を払うべきだろう。

プロの仕事は、いつも静かに結果を出し続けている。

It became care person and lost the thing which I got

I was care person if I noticed. Oh, even Mullah is not Euler in Bemular either and seems to say care person.
Japanese

There seems to be association of Japanese care person, too.
care person has a person needing care in everyday life close and says people supporting it. I seem to be care person somehow or other. There is the person whom I reminded of it. It is hard to be serious.
I cannot talk about the contents of the care. Because it is to belong to privacy. But will I talk as far as I can show it? It is one factor that a wall of this privacy corners care person in. Because it shows appearances commonly. It may be to but be devoted to care to see it commonly. It is 15 years after the long long care life reached switch. This almost overlaps with my occupation life. In fact, it is not so clear how long it became care person. Such as about 19 years old feel like, and feel so. The role as the balancer in the family just founded a way to care person all too soon. That means, I think that I may say.

“My normal did not have the normal of the world”.

Continue being worn out for the role in families, and is proper; was not able to find a job. I found a job once, but stopped it in just a little over one year. I did not turn and was not able to have passion toward work. There was not energy anymore. This may be a simple excuse. Because I shook off a family if I appeared in the society and was able to find a job. But I was not able to speak it. It will be the first minus of this having been care person. It leaves a trail in now, but is unavoidable.
There was the encounter with the wife 15 years ago. The encounter of 25-year-old me and wife who came down helplessly. I think that I changed slowly slowly from there. Anyway, whatever you do, it takes time. I think that, as a result, it would change one’s heart.

As a temporary worker of the social welfare corporation, I worked as a member of support of the mentally-disabled person once. It was quite fun, but a salary was low and it was temporary and said to the last that it was a filler before looking for a proper workplace. Therefore I challenged it from there. As a result, I failed. Because it was employing mercenaries business as the irregular employment, I am fired if work disappears even if I give a result to a cuttlefish. By Lehman shock of 2009, it became running out of a contract tragically. There is no security as ever. care person does not have money. I am short fatally. After all this will become do not have place social understanding clogged up.

I work by work of the care from there approximately eight and a half years and lead in now. The workplace is changed. The present job is the third.

The one which continues working of the care thinks that this will be because there is a base as care person somehow or other. Because I do it almost every day even if walk assistance one thinks about a very barrier-free route when going out, a difference appears with the person doing only work of the care. But I of I may be saved in its own right because the know-how obtained in the workplace is usable in a house. You may think about this in a plus. There are various changes in 15 years. As for the barrier-free facilities as for the reaction of the world. I may vividly feel it.

After all the necessary thing thinks whether it is existence of the work that I can earn while caring for care person. Because the barrier-free facilities were set considerably, there is quite much that it is possible for “solution on Friday”. But, by the present Japanese system, the human being who cannot participate in membership is removed automatically. Japan is a reason to be said to be huge irregularity society. In other words it is social ostracism from a beginning. There is not to be me in the world public anymore. It may be comfortable, but after all may be troubled in its own right. It becomes the premise that a family takes care of the welfare system of this country. I give the service that it is hard to use and come true and think that it will be the biggest cause. There is the ideology called the simple family, and all the things against it think that it lays distress of care person to support.

If it is the principle of application because the welfare system is a government office and does not take out SOS, nothing moves. This is an element tormenting care person again. There would not be it without a suit even if I took any disadvantage. This is terrible; hand giving up. A bad smell rises even if I died in loneliness and is left unattended without the suit from the neighborhood. There is the man of the prime of life in particular beyond the welfare system of this country. It may be that there is freedom to die by the roadside.

It is that there is a lot of danger that care person is removed easily, and enters the lonely air pocket. Therefore I think the action to have to go carefully.
As for my life, I reached a turn-round. Double care is waiting to the destination. It is the future when I cannot move this and the certainty is high. I throw all away and escape or will come over unless I do whether you die. I make preparations appropriate as possible and want to prove right. It may be intellect , contingency of the double care whether it begins if I think.

I am enriched, and can you shelve whether you finish the life as a victim? It depends on action in the future.

I did such a quiet readiness in morning of the new moon.

A lifestyle of Japanese.

I think that Japan is a large amount of country compactly.
Japanese
But I am troubled very much now. I think that it is a country losing confidence. I have uneasiness and live on all living from hand to mouth while being a country proud of a big population scale. Daily life is over by inertia of crying how. There are many such people.
Though both a Japanese and a Chinese have many people minding honor, there are many people preventing, if anything, it from showing a lot of a showy person, the Japanese as for the Chinese if possible. Anyway, a Japanese is uneasy, and there is no help for it. There is a vast saving person for the uneasiness of the old age. Though I think that the one that I used while I live is happy, I possess it at the time of what-if and do not use it. Because there is the money that it uses only it to spend illogical medical expenses right before I die.
I think that the Japanese can do a more various thing if I can get rid of this uneasiness. I think that managers running the government and a bureaucrat of the Japanese Government, a Japanese company suffer from a mental disease. The negative spiral that uneasiness produces uneasiness continues all the time.
After all I think the cause that a lifestyle has it. The lifestyle to act of Japanese is abnormal. I leave the house early in the morning and get on a commuter train more than one hour and work overtime until work is over about a company and I am jolted in trains more than it again for one hour and return to the house. It is not unusual to support the family at about 22:00 from 21:00. I will live every day without watching the sun. Though I am used, I think that after all it is abnormal. There is very little time when oneself becomes free. Anyone is in an abnormal condition in this and suffers from a mental disease. A level of nation disease already includes it.
However, a place thinking that oneself are normal individualizes Japanese extraordinariness.
Then what is the solution? You should stop such a lifestyle. I work with responsibility to like it and make money to like it. It may be that this is the most important for a Japanese. But then only it should help each other each other because I may not readily get along well. So I think so that it is what is demanded from the present Japanese to give a result.
I want to spread more Japanese. I should come to be able to speak Japanese regardless of nationality. Japanese hides the power only for it, and there is the ability for coined word still more, too. The words are property for a race. I want to spread it in Asia more. Therefore I intend to scratch a lot of simpler sentences. I intend to write Japanese for the world if I say exaggeratedly.

ケアラーになって、得たもの、失ったもの

気づけば私はケアラーだった。
英語版
アムラーでもベムラーでもオイラーでもなく、ケアラーというらしい。
日本ケアラー協会というのもあるらしい。
ケアラーというのは、日常生活で身近に介護が必要な人がいて、それを支える人たちのことを言う。どうやら私はケアラーであるらしい。それを気づかせてくれた人がいる。大変にありがたい。
ケアの中身に関しては語ることはできない。プライバシーに属することだから。でも公開できる範囲で語ってみようか。このプライバシーの壁が、ケアラーを追い詰める一つの要因ではある。見た目は普通に見えるから。普通に見えるようにケアに没頭せざるを得ないということかもしれない。長い長いケア人生が転換を迎えてから15年になる。これは私の職業人生とほぼ重なる。いつからケアラーになったのかは、実はあまり明確ではない。19歳頃のような気もするし、そうでない気もする。家族におけるバランサーとしての役割が、そのままケアラーへの道をいつの間にか開いていた。ということは言えるだろうと思う。

「私の普通は、世間の普通じゃなかった。」

ということ。家族での役割に消耗し続けていて、まともな就職ができなかった。一旦就職はしたのだが、1年ちょっとでやめた。向いてなかったし、仕事に情熱を持てなかった。すでにエネルギーがなかった。これは単なる言い訳であるかも知れない。社会に出れば家族を振りきって就職することもできたのだから。でも私はそれができなかった。これがケアラーであったことの最初のマイナスであるだろう。それは今で尾を引いているのではあるが、やむを得ない。
15年前、妻との出会いがあった。どうしようもなく落ちぶれた25歳の私と妻の出会い。そこからゆっくりゆっくりと変わっていったように思う。何しろ何をするにも時間がかかる。それが結果として、自分の心を変えていったのだろうと思う。

一旦は社会福祉法人の臨時職員として、知的障害者の支援員をやった。結構楽しかったが、給料が安いし、あくまで一時的なものであって、ちゃんとした就職先を探すまでのつなぎだよと言ってくれた。だから、私はそこからチャレンジをしてみた。結果としては失敗した。非正規雇用としての傭兵稼業であったから、いかに結果を出しても仕事がなくなればクビである。2009年のリーマン・ショックで、あえなく契約切れとなった。あいかわらず、なんの保障もない。ケアラーはお金がない。致命的に不足している。これはやはり、つまるところ社会の理解がないということになるだろう。

そこから介護の仕事を8年半ほど勤務して、今に至る。職場は変わっている。今の職場は3つ目である。

曲がりなりにも、介護の仕事を続けているのはケアラーとしてのベースがあるからだろうと思う。歩行介助ひとつとっても、外出時のバリアフリールートを考えるにしても、毎日のようにやっているから、介護の仕事だけをしている人とは差が出る。でも職場でえられたノウハウも家で使えるから、それはそれで助かることもある。これはプラスに考えていいことだ。15年もたつと、いろいろな変化がある。バリアフリーの設備も、世間の反応も。それを如実に感じることがある。

ケアラーにとって必要なものは、やはり、ケアをしながら稼ぐことができる仕事の存在じゃないかと思う。バリアフリーの設備はだいぶ整ってきたので、「金で解決」できることは結構多い。でも今の日本のシステムでは、メンバーシップに参加できない人間は自動的に排除される。日本は巨大なムラ社会と言われる所以である。つまり最初から村八分なのである。世間一般では私は既にいないことになっている。それはそれで快適なこともあるが、やはり困ることもある。この国の福祉制度は家族がケアをすることが前提になっている。それが利用しづらいサービスしかない最大の原因だろうと思う。単なる家族というイデオロギーがあり、それに反するものはすべて自活せよということが、ケアラーの窮状を生んでいるとは思う。

福祉制度は役所だから申請主義でありSOSを出さねば何も動くことはない。これもまたケアラーを苦しめる要素である。いかなる不利を被っていたとしても、訴えがなければなかったことになる。これは散々に手こずらされた。たとえ孤独死したとしても、異臭が発して、近所からの訴えがない限り放置される。特に壮年期の男性はこの国の福祉制度の範囲外にある。野垂れ死にする自由があるということかも知れない。

ケアラーは容易に、排除され孤独なエアポケットに入ってしまう危険がたくさんあるということなのだ。だからこそ、その取り組みは、慎重に行っていく必要があるとは思っている。
私の人生は折り返し点をむかえた。その行く先にはダブルケアが待っている。これは動かしようがなく、かつ、確実性の高い未来だ。すべてを捨てて逃亡するか、死ぬかしない限りやってくるだろう。なるべく適切な準備をして当たりたいものだ。と思ったら始まっているかも知れないってのが、ダブルケアの偶発性かもしれない。

犠牲者として人生を終えるのか、充実して見送ることができるのか。それはこれからの行動にかかっている。

そんな静かな覚悟を、新月の朝にしてみた。

5つのギアチェンジ。

さて、我が家のU14ブルーバードのギア比はこんな感じ。

第1速 3.333 ファースト
第2速 1.955 セカンド
第3速 1.286 サード
第4速 0.926 トップ
第5速 0.733 オーバートップ

後退 3.153 バック

最終減速比 4.375

これを頭に入れながらギアチェンジしている。ギア比の計算は全部掛け算なんで、大体の数字をいれておくと面白いです。大体においてセカンド、サード、トップがあれば、世の中の道を走っていける車ではあるんですが、加速の場合は段飛ばしシフトといって、セカンドからトップへ、ファーストからサードへ、なんてことをやることもあります。加速が急激であり、そこから安定したスピードを保とうとするとそんな感じになることもあります。
一番多いギアチェンジはサードとトップの間ではないでしょうか?30キロから40キロの間ぐらいで、いつも思い悩むところではあります。

U14ブルーバードギア比

U14ブルーバード性能諸元

ファイナルレシオ Final Ratioとか言うとかっこいい。
最終減速比とは

あ、そうそう、マニュアル車友の会の候補生としてはK12のマーチを考えています。他にもスバル・インプレッサ、スズキのスイフトあたりが候補ではあります。トヨタ・セリカのSS-I、マツダのアクセラもいいかな。
K12マーチの諸元

K12マーチは重量も軽い上に、現時点で車の台数も出ていて、メンテナンスも容易、軽量で4人乗れるというあたりにメリットを感じています。なんだかんだで燃費は重要なファクターであります。ガソリン代、バカになりませんものね。マニュアル車の運転を楽しんでもらうっていうことであると、軽めの車がいいんです。ハイパワーでトルク一杯の車は、そもそもギアチェンジをする必要がありません。ギアをぶち込んで、半クラッチですべてがつまんないですね。

マニュアル車に必要な足腰を調整する運動プログラムもあってもいいですね。

ZZT230セリカ

セリカは、運転するっていうだけならいいんですが、2ドアクーペだから、どうしても人を載せるってことはできないですね。一人でかっ飛んでツーリングに行くにはいいけど。結構荷物も積めるんで、一人旅にはいいかと。

育児休暇、介護休暇はなぜ取得されないか

介護休暇にしろ、育児休暇にしろ、特に男性の取得率が低いのは、仕事を離れて休暇をとれば、それは即座にマイナス評価になり、ひどい場合はそのまま事実上解雇に追い込まれる。仕事を離れた人間はクビ。しかも自己都合で放り出される。これが日本の会社の現状だ。

「働かざる者食うべからず」 「ノーワークノーペイ」

という言葉しかない。だから、仕事を休むことは許されない。こんな意味不明なルールがある限り、育児休暇も介護休暇も有給休暇も取得が進むことはないだろう。

介護や育児をしっかりこなしても、それは全く会社においては評価されないのだ。ほとんどの会社において、その日暮らしの利益しか考えていないことが、休暇をとれない最大の原因である。

少し考えてみればわかるが、次の世代が育っていかなければ、社会は存続し得ない。それをやらないで、利益だけ確保しようとするのはただ乗りのフリーライダーでしかない。子育てにしろ、介護にしろ、そういう側面を持っている。

休暇がとれない職場というのは結局、目の前のことしか考えていない職場であるといってまず間違いない。有給であろうと無給であろうと。

休めば、評価が下がる仕組みを変えない限り、育児休暇や介護休暇の取得は増えていかないと思う。
それと、労働者同士に有給休暇の調整をさせることは止めるべきだ。基本的にはすべての労働者が100%有給休暇をとることを前提に人員を配置すべきなのである。たりなくなったら一時的に有期雇用の人間を雇ってもいい。トータルで足りないのに、労働者同士で調整したところで、誰がか犠牲になるだけで、無意味なことだと思う。

休暇をとった穴を埋めた労働者を評価して給与に反映する仕組みも必要だ。いつも思うのだけれど、誰かが休んでフォローしても給料が同じって言うのはいつもおかしいと思っている。欠勤だったら丸々一日分の人件費が浮くわけだし。それを利益として計上してしまうと、どんどん労働者の作業品質は下がっていく。

とにかく人件費を削って利益を出している会社にもう未来はない。補助金だのみのゾンビ企業はさっさとつぶれるべきなのだ。

経済学者はいつも、もっともらしいことを言うが、まともに機能したためしがない。おそらく、経済学は会計学をベースにした未来予測なのかも。それだから、結果論に陥りやすいのかもしれない。未来を決めつける結果論でしかないということだ。経済学は学問と言えるかどうか怪しい。

休暇の取得には大きな経済効果があるのだが、それが日本の会社組織にとって気に食わないらしい。自分たちだけ儲かればそれでいいという考え方なのだろうと思う。やっぱり、目の前のことしか考えていないのが最大の原因だろうと思う。ひとつずつとりあえずこなすことが大事だが、わずかでも積み重ねて結果を出していくってことが必要不可欠なのに。