満州で田中角栄は何を思ったか?

Wikiで田中角栄をみていたら、満州の兵営で何を感じていたのか?どんな交流があったのかが気になっていた。
田中角栄wiki
騎兵24連隊ということだから、才気煥発というタイプだったのだろう。明晰な頭脳であることをかわれて重宝されたものと思われる。
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kakuei/history_heiekigidai.htm
射撃は下手くそだったらしい。射撃馬鹿という言葉があるそうで、 射撃の名手は一見するとうすらぼんやりしている人間が多いそうだったらしい。角栄はそういうタイプではなかったのだろう。
角栄は肺の病気にかかり、内地に戻り療養している。ちょうどこのタイミングで大日本帝国は大規模な動員にはいる。なので太平洋戦争に従軍はしていない。昭和13年甲種合格の現役兵だというから、もし従軍していれば高い確率で戦死していただろうと思う。
病気で戦線に出れない悔しさと申し訳なさが角栄の気持ちにあっただろうから。最初から病気だったわけではなく、甲種合格の栄光をつかんでからの挫折だったのだから。
満州帰りの部隊が、そのまま角栄を支える組織となったのではないか?兵営における共通体験が、強いつながりを作ったのではないだろうか?
気になるのは旧満州国の革新官僚とのつながりだ。岸信介なんかはその象徴。直接関係なくとも共通のつながり位はあったかも知れない。
ニニ六事件で左遷された皇道派の山下奏文と第一師団の兵隊もいたので、満州はある意味で不穏分子の集いみたいなところもあります。ニニ六事件参加者の兵隊は満州に飛ばされて警官やってたみたいだし。
満州で角栄は、実験国家の雰囲気をたくさん吸ったんだろうとおもう。




日本海海戦について

日露戦争における日本海海戦についてご存じでしょうか?ロシアのバルチック艦隊と日本の連合艦隊が激突し、日本が劇的な勝利をおさめた戦いです。この勝利は多くの人の努力と、たぐいまれなる幸運によってもたらされたものです。それでは時計の針を1905年に戻してみましょう。

バルチック艦隊は、ロシア皇帝ニコライ二世が、日本の連合艦隊を撃滅するために、ヨーロッパにあるロシア海軍の艦艇をかき集め、日本に送ったものです。
司令長官であるロジェストウェンスキー提督に率いられ、リバウ港を出港しました。地球を半周するような大航海をして日本へやって来ました。様々な困難を抱えながらも航海を成功させたことは海軍国としてのプレゼンスを示したといっていいでしょう。

上海辺りで石炭船などの補給船を離脱させたバルチック艦隊は作戦行動に入ります。目的地はウラジオストックです。
バルチック艦隊がとりうる航路は3つありました。対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3つです。
もっとも通過が簡単なのは対馬海峡でしたが、敵の主力である日本の連合艦隊が待ち受けている可能性が高いです。
津軽海峡、宗谷海峡には連合艦隊が機雷を巻いて封鎖している可能性が高いのと航路に関する情報が乏しく、場合によっては燃料切れや座礁の危険があります。
ロジェストウェンスキー提督は対馬海峡通過を選びました。日露双方の戦力を分析すると戦艦の戦力ではロシアが有利であるので、戦艦の何隻かはウラジオストック入港できるという見込みだったのでしょう。
一方の日本ではバルチック艦隊がどこからやって来るのかは国民的な関心事でした。明治天皇の夢枕に坂本龍馬とおぼしき武士が立っていた。(だから大丈夫)とかそんな話もあります。
連合艦隊司令部の作戦先任参謀秋山真之少佐は、対馬海峡~ウラジオストックまでの日本海を細かく分類し、ウラジオの七段構えという緻密な作戦を練り上げていました。
連合艦隊司令部も対馬海峡での要撃作戦で一本化していたのですが、バルチック艦隊の消息が全然つかめず不明。今までの航海スピードから逆算すると対馬海峡についていてもおかしくないのに。
ジリジリと時間だけが過ぎていく。[バルチック艦隊は対馬海峡ではなく津軽海峡か宗谷海峡から密かに侵入しているのではないか?]疑念が深まるなか連合艦隊司令部は会議を開きます。秋山真之先任作戦は敵情が不明である以上、能登沖へ移動すべきではないかとの意見を出します。しかし島村速雄という一人の少将が会議に遅刻しこう述べました。[内火艇が荒天で遅れて遅刻しましたが、バルチック艦隊も同様ではないか?]と。
結果としてみれば島村速雄少将の指摘は正しかったのです。バルチック艦隊は遠路の航海で船底に海藻が一杯ついていて速度を大きく落としていたのです。
しかし会議ではそれを知るよしもなく、連合艦隊は敵情不明の場合、能登沖へ移動することに傾いていきました。
そして運命の5月27日がやって来ます。

連合艦隊は徴用した商船に海軍士官をのせて偵察用の仮装巡洋艦としていました。その中の一隻が日本郵船の信濃丸です。午前六時前の早朝、信濃丸はバルチック艦隊を発見します。艦長の成川大佐は狂喜すると同時に覚悟を決めます。
相手は世界最強の戦艦、信濃丸は装甲もない商船に過ぎません。砲撃を受ければ一たまりもありません。数分で海の藻屑です。成川大佐は三六式の無電機で連合艦隊司令部にバルチック艦隊の位地と行動を撃沈されるまで打ち続ける決心をします。信濃丸からの正確な情報は秋山真之参謀にとって正に天祐だったのです。
[敵艦見ゆとの報に接し、これを撃滅せんとす。本日天気晴朗なれども浪高し]
というあまりにも有名なこの電文はこうして生まれました。
不思議なことに発見された側のバルチック艦隊は、信濃丸の行動を妨害しませんでした。追撃によって体形がみだれるのを嫌ったためとも言われています。信濃丸が発した[敵艦ミユ]はバルチック艦隊にも受信されていたにも関わらずです。
一方の連合艦隊司令部は活況を呈します。主力はバルチック艦隊との会合に向け動きだし、信濃丸の触接行動は、三等巡洋艦の和泉が引き継ぎ、運命の対馬海峡へとバルチック艦隊は近づきます。
そこで1つの珍事が起きました。
駆逐艦の司令を勤めていた鈴木貫太郎少佐が率いる部隊がバルチック艦隊の正確な進路を知ろうとして、敵前を大胆不敵にも横切ったのです。(鈴木貫太郎は後に大日本帝国最後の総理大臣になります。)
これを見たバルチック艦隊は進路に機雷を巻いたと誤認して陣形を大きく崩してしまいます。ロジェストウェンスキー提督は修正しようとしますが、戦場の緊張感からか、命令がうまく通じません。この混乱した状態のまま、連合艦隊と激突することになりました。
午後二時前に連合艦隊とバルチック艦隊は会敵します。連合艦隊は北東から、バルチック艦隊は南西からやって来ましたので、このままではすれ違ってしまいます。ロジェストウェンスキー提督の目的は、バルチック艦隊の主力をウラジオストックへ入港させることなので連合艦隊と戦うより、振り切った方が勝ちです。
砲撃食らっても新鋭戦艦の装甲は耐えられると判断し、まっすぐ突っ切ろうとしたのです。
この状況を変えたのが、東郷平八郎提督による敵前大回頭です。ギリギリの距離でUターンすることでバルチック艦隊の進路を阻みつつ先頭艦に砲撃を集中させるという大胆不敵な戦法です。敵前でターンをすれば連合艦隊は無防備な横っ腹を見せることになり著しく不利です。実際にも連合艦隊は回頭直後に多くの被害を受けています。
しかし連合艦隊に有利な陣形となったとたん、砲弾の雨がバルチック艦隊に降り注ぎました。日本海軍の砲弾は、敵艦の装甲に穴をあける徹甲弾より、火事を起こして戦闘不能に追い込む下瀬火薬を使っていました。後の焼夷弾に近いものです。そのため、バルチック艦隊の戦艦は、沈まないが、ドンドン戦闘能力を失っていったのです。
そうやって順調にバルチック艦隊の撃滅を進めていた東郷平八郎提督ですが、バルチック艦隊の戦艦の一隻に奇妙な動きを発見します。進路を変更し、逃亡しようとしたかに見えたのです。東郷平八郎提督以下の第一艦隊の六隻は、さらに先を押さえるべく砲撃をやめて艦隊運動をはじめました。
しかし、後に続く第二艦隊司令長官上村彦乃丞提督はこの命令を無視し、砲撃の続行を命じました。なんとバルチック艦隊は進路変更ではなく舵を破壊されてまっすぐ進むことが出来なくなっていただけだったのです。第二艦隊の五隻のみだと、バルチック艦隊との戦力差では劣勢になりますが、上村提督は怯まず攻撃を続けました。東郷提督の第一艦隊はミスに気づいたときには遠く離れてしまっており、再度会合するまでに時間がかかってしまいました。
ここでバルチック艦隊司令部がやる気をだして反撃していたら、バルチック艦隊の逃亡を許していた可能性があります。
戦力を失ったバルチック艦隊の戦艦達は連合艦隊の駆逐艦の魚雷によってドンドン沈められていきました。
ロジェストウェンスキー提督は負傷して駆逐艦に移乗していましたが、ここでもまた1つの珍事が起きます。ロジェストウェンスキー提督が日本海軍の捕虜になったのです。海戦の敗将が捕虜になるということはとても珍しいことです。大抵は逃げおおせるか海の藻屑になるからです。
ロジェストウェンスキー提督をのせた駆逐艦が日本海軍の駆逐艦に発見されていざ交戦となったところ、ロシア側の駆逐艦の様子がおかしい。塚本という若い中尉が当時最新鋭のカールツァイスの望遠鏡を持っていてそれを使ってみてみると、ロジェストウェンスキー提督は降伏の白旗をあげていたのです。もしもこの望遠鏡を持っていなければ、ロジェストウェンスキー提督は海の藻屑に消えていたでしょう。塚本中尉はこのカールツァイス望遠鏡を東郷平八郎提督に見せてもらい、感動して自費で購入したそうです。中尉の給料一ヶ月分だったとか。
それがロジェストウェンスキー提督が捕虜となり生き延びるきっかけとなったわけです。ロジェストウェンスキー提督は佐世保の海軍病院に収容され東郷平八郎提督の見舞いを受けました。地球を半周した大航海の終着が佐世保の病床であったということになります。
長くなりましたが、完全勝利といわれた日本海海戦においても、ミスは多発していましたがそれをリカバリーする柔軟性が日本側にあり、ロシア側になかったことが勝敗を分けたと思います。